belief コラム

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2016.11.21 日々の行い
事務所前の幹線道路を街宣車が通った。富山市議会の政務活動費不正受給に関して、犯罪行為である旨、糾弾している。私たちは、常日頃、清廉潔白な政治家を望むが、残念ながら、人は良いこともすれば悪いこともしてしまう。悪いことをしないようにするには、日々、悪いことをしないように意識し続けるが大切だ。ちょっと悪いことをしてしまった、と気が付けば、これから同様なことをしないように気を付けたら良い。私自身、記憶を辿っていくと、いくつも細かな点で、悪いことをしてしまったと感じたことがある。なかなか聖人君子はいない。日々、自分の行いを正していけば、なんとか悪い人にならずにすむような気がしている。

2016.10.27 ゴールの捉え方
9月末の健診で体重増が発覚、一念発起してジョギングを始めました。昨年末から今春にかけてウォーキングをやってましたが、半年でリバウンドしてしまったんです。ジョギングを始めてちょうど一ヶ月になりますが、1キロの減量に成功しました。ジョギングといっても極めてスローなジョギングです。そこで日々感じたことなんですが、私の場合、顔を上げてゴールを見ちゃうんとめげてしまうんですね。足元を見て一歩づつ進むとなんとかゴールにたどり着きます。でも、ほんとは顔をまっすぐ上げて凛々しく進むのが正解だと思います。人それぞれゴールの捉え方は違いますが、私は私のやり方で頑張ろうと思っています。200g単位の体重計に乗りながら、200g単位での減量を目指しています。

2016.9.21 記憶に残るおじいさん
小さい頃の記憶はありますか?先日、63歳の誕生日を迎えた中高齢層の私にとって、3歳や4歳頃の記憶はほとんど残っていない。小学生の低学年だった頃、おばあちゃんと一緒に寝たよなぁ。夏は大きな蚊帳の中に入ってみんなで寝たよなぁ。近所の子にいじめられて、おばあちゃんに泣いてすがったよなぁ。このように、おばぁちゃんの記憶はいくつか残っているのだけれど、おじいさんの記憶はほとんどない。小学校6年生の時に亡くなったので、結構記憶に残っていそうなものだけれど、葬式の時の怖い記憶がよみがえるのみだ。今、私は、4人の孫のおじいさんになり、年末にはもう一人孫が生まれる予定だが、果たして記憶に残るおじいさんになれるんだろうかと、変に気をもんでいる。

2016.3.22 勝手に期待するから。。
先日、福井県にある某お寺の住職さんの講話がテレビで放映されていました。中には、ギター片手に説法を始めるお坊さんもいらっしゃるとか。なかなかユニークです。そんな中、ホワイトボードに書き込みながら講話をされている住職さんの言葉が心に留まりました。。「期待するから煩悩が生まれるのだと」。。そういえば、多くの人は、自分の価値観で、相手に様々な要求をするものですね。こうあって欲しい。こうして欲しい。度重なる期待をして、思い通りにいかないものだから、自分勝手に裏切られた思いに浸ってしまう。これから、私は、某住職さんの「この言葉」を肝に銘じ、余計な期待をしないよう自然体で暮らしていきたいと思っています。そういえば、私の口癖は、「ま、いいか」です。

2016.1.7 財産継承のあり方について
財産には、自分で築いた財産もあれば、相続や贈与、遺言や保険による遺贈などがある。この財産を、自分の意思でどうのように承継させようか。高齢になると想い、惑うことが多くなる。我が子の中でも特定の○○に、本来の法定相続人ではないが△△に承継させたい、家を継いでくれるなら□□に相続させたい、など、自分の気持ちを遺言という形で遺したり、口述によって約束したりする。しかし、思い通りになるだろうか。大切な財産だが、しょせんは物なのだ。心身の平安なくして何をか言わん。財産承継の対策とは、多くの人が考えて自然な流れや感覚を大切にした方が良いと思う。イレギュラーな承継を考え、実行させようとするといずれ必ず歪が出る。

2015.7.2
以前、「人はなかなか変われない」と書いたけれど、つくづくそう思うことが続いている。しかし、人の話をよく聴いて、誤っている場合は、考えや行動を修正しなければならない。柔軟な姿勢を持ち続けることが大切だ。そう肝に銘じている。しかし、若い時にはできても、年と共にそれができなくなることが往々にしてある。直すポイントは、耳から聞いたり、頭で考えたりすることを、言葉で話す言語・口先と直結しないことだ。回線が短くなっていると、思ったことをすぐに口に出してしまう癖がでてしまい、時には相手を傷つけたり、衝突の原因になったりする。

015.5.27
最近、テレビで「デジタル遺産」が取り上げられていた。中でも、本人しか知らない金融資産はやっかいだ。私は、20年近くネット証券を利用していた。「いた」という過去形は、「今」はほとんどない、ということだ。私は60歳を機に、家族が解かりやすい金融資産へと切り替えている。外貨運用や外国株など、一時は金融資産の大半を投資に回していたが、今は円資産へと切り替えている。為替相場が1ドル104円台の頃だから、今も持ち続けていれば、20%はプラスになっている勘定である。負け惜しみのようだが、人間、幾つになっても欲張りなのだから、切のない話である。お金がいくらになったら満足するかは、ゴールなどない。話を戻すと、デジタル遺産は、高齢になればなるほど、家族にとってはやっかいなものになる可能性がある。身辺整理は、元気なうちから始めよう。

2015.4.8
NHK・ニュース9の大越・前キャスターが、人生の目標(ゴール)を目指す時、ゴールではなく、ゴールの先を見て、本来のゴールは突っ走るくらいの気構えを持った方が良いと、自身のコラムで書いていらっしゃるとのことだ。池上彰氏が日経新聞のコラムで紹介されていた。さすがスポーツマンと感じ入った次第。一方、私の想いはというと、ゴールが見えてきたら、ゴール手前の第四コーナーあたりは歯を食いしばって頑張り、直線も同様、一生懸命走ってみるが、ゴール手前になると馬なりで行き過ぎるという、なんともお叱りを受ける人生観である。何がそういう想いにさせるのか。振り返ってみると、父が60歳で半身不随の病気になり、母も58歳で大病。義兄は58歳で突然死、姉三人がいずれも60歳で脳疾患を患うなど、現役バリバリの途上で何が起こるかわからない、と感じたことが私の人生観になったようだ。

2015.3.12
今日は、我が社の創業記念日。平成9年3月12日に法人を設立した。あれから!18年。何でもできそうな若気の至りから、何か専門分野があるの?といった自問自答を巡らす60代。でも、少なくとも幾人かのお役には立ったのではなかろうか?迷惑をおかけしたことも多々あるが。。これから先は、一つ一つ丁寧に仕事をこなしていきたい。それは、会社の仕事に限定したことではなく、地域での役割やご先祖から受け継いだ農業をも含む。なぜなら私という「人間」は一つだから。

2015.2.18
我が村「やまだむらどっと混む」
いやぁ、懐かしいのなんのって。私が仕事を始めた頃(1997年)、私の住む田舎は、「電脳山田村」として、日本のみならず世界にも知れ渡った?時期がありました。大げさって? そんなことないですよ。当時、我が家にも、アメリカから単身、テレビで見たという青年が一週間余り、ホームスティをしたことがあったり、ソウル大学の教授が家庭訪問に訪れたり、現・林家三平がテレビ番組で我が家を取材に訪れたり、関東方面の大学生が延100名程パソコンボランティアに訪れたり、と大変にぎわった時期がありました。その一昔懐かしい気持ちを胸に、当地区の自治振興会がホームページを立ち上げたとのこと。昔の夢をもう一度、というわけにはいきませんが、スローライフや田舎暮らしをアピールしようと意気込んでいるわけです。当小島地区には、なんとライブハウスもオープンしたというから。一度遊びに来られ〜。

2015.1.21
(1.17のウィークリーコラムから数日経って、もう一度感じたこと)
人は皆、つまずくポイントを持っている。平穏な日常であれば、判断や行動を間違わないだろう。穏やかな表情をし、余裕のある言葉で受け答えもするだろう。しかし、価値観が大きく異なる人との接触や急激なストレスがかかる場面では、想わぬ行動を取ってしまうことがある。いわゆる「地雷を踏んだ」とか「プッツンする」とか、古くは「ちゃぶ台をひっくり返す」ような感情の急変が起こり得る。私も何度か経験したことがあるが、大抵は後から、しまったという後悔の念に駆られる。「一呼吸置く」とか、「自分を顧みる」とか、「相手が自分の立場だったらどう思うだろうか?」と冷静になってみると、心のわだかまりがスーッと消えていくのではないだろうか。

2014.12.10
人は、自分の尺度とか自分の価値判断で物事を捉える。客観的の反対語は主観的となるが、人の考え方の偏向性を「バイアスがかかっている」ともいう。家庭環境や周辺の人々との様々な関わりの中で、自分の論理や価値判断が生まれ、行動に影響を与える。そのことは、他者との関わりの中で、ぶつかってしまうこともあれば、共感し合うこともある。要は、自分の価値感だけで他者を判断しないことだ。必要なことは、様々な価値観があることを知り、理解することだと思う。理解した上で、共感することもあれば、説得を試みることだってある。

2014.11.11
年配の人には、「お陰様で」という言葉を自然に出される人が多いですね。たまに、「蔭ながら応援させていただきます」という気の利いた?言葉を言う人もいますが。後者の方は、少々眉唾な?面も否めません。。。この「お陰様で」という謙虚な姿勢は、なんとも、人生経験の縮図のような気がします。また、「今、生きている」という私達の実感を、「今、生かされている」という言葉で話される人もいますね。こちらは、神仏やご先祖様、家族や知人・友人に感謝する、という想いを込めている言葉のようです。さて、私はと言いますと、前段の「お陰様で」という意味ががようやく解かりはじめた年頃のように感じています。

2014.9.25
加齢と経験とともに人生の役割は変わってくる。「加齢」というと「加齢臭」なるオジサンの印象が付きまとうが、加齢とは良いことだと思えるようになった。まず、多様な価値観がぶつかり合う世の中で、「怒らなくなった」。そして、自分と異なる意見であっても、取りあえず「受け止めること」ができるようになった。受け流すと日和見になってしまうが、「受け止める」とワンクッション置くので、相手の考え方や思考経路などを思いめぐらすことができる。学生時代に先輩の女性から、「あんたは日和見ね!」とダメ出しされたことがあるが、それから40年経ち、私の日和見もバージョンアップしているように思う。

2014.7.25
先日、ようやく「多面的機能支払交付金」なる制度の申請書類を行政に提出した。中山間地域に住んでいないと、何のことかさっぱりわからないと思う。要は、中山間地域の農地には、多面的機能があるという。多面的??つまり、農地には、農業生産以外に幾つかの機能があるというのだ。主なものに、景観や防災(水害、土砂崩れなど)が挙げられる。そこになぜ交付金を支払うのか?多面的機能を備えた農地を保全にするには、人手が必要であり、人手には報酬が必要だから、その財源となる交付金を集落単位で支払うという話だ。実は、40年程前には、山を切り開き、農業生産を高めなさい、といった趣旨で、国費が投ぜられた。その時に、森林や雑木が伐採され、山は畑地として開かれ、豪雨の時は、さえぎるものが少なく、災害発生の一因になっている。人の知恵が国策につながるが、なかなか先のことは見通せない。地域にて、幾つかの役割を担う我が身であるが、冷めた自分も大切にしていきたいと考えている。

2014.6.9
先日、金沢市内にて、アルピニストの野口健さんとともに、大勢の市民が歩道周辺の清掃活動を行ったという。タバコのポイ捨てや空き缶の投げ捨て、車内ごみの投げ捨てなど、平気で捨てる人がいる。ほんとに不思議で仕方ないのだが、市街地のみならず、我が家周辺の中山間地域でも、山菜取り後?のコンビニ弁当箱や缶ビールの放棄が数多く見受けられる。県道脇の我が水田には、缶コーヒーやペットボトルの投げ捨てが多い。小児期より、公衆衛生や公共の概念が十分に植えつけられなかったのだろうか。これは許せない。清掃活動が放映されることで、気づいてくれる人が増えるよう願っている。

2014.5.13
戦国乱世や江戸後期の尊王攘夷・討幕運動など、時代小説を読むことが多い。特に進むべき道に迷うとき、人はどのような選択を行ったか、に興味がある。江戸後期は、尊皇攘夷が討幕運動へとつながり、明治維新という開国を迎えるわけだが、攘夷と開国はまったく異質のものだ。しかし、国の行く末を担う人たちは、したたかに自説を変えていく。時代の騒乱に埋もれることなく、その後を見据えて、強靭なバネのように、しなりながらも我を忘れることはない。自分の置かれた立場、立ち位置、役割を認識し、理性を失うことなく、私自身の諸事にあたっていこうと思う。

2014.4.4
数日前、半日かけて、我が家の畑地周辺に生えた雑木を切り倒した。大きいので直径20センチほどにもなる。雑木の数は100本を優に超えるだろう。こんな畑地が、私の家だけでも10枚くらいはある。なぜ耕作もしない畑地があるのか?というと、畑地の入り口に水路のバルブが作られていることで一目瞭然となる。水田にしようとしていたのだ。昭和40年代には、人口増による食糧難が叫ばれ、山林を切り倒して、開拓事業が行われた。あれから40年。多くの畑地は、管理が行き届かず、所有者にとってお荷物と化してしまった。先代に失礼だから、一世代前の愚行とは言わない。時代がそうさせたのだ。ま、イケイケどんどんの時代だったのだと思う。次の世代である私としては、なんとか保全はしようと思う。こんな気持ちを大切にしつつ、枝打ちに精を出していた。

2014.3.4
国の中山間地域等直接支払制度である「集落協定」の代表を務めて5年目となる。つまり役員の最終年を迎えた。集落協定は、5年単位であり、今期が第三期目。たぶん来年以降、第四期も続くだろう。国土の7割を占める中山間地域。後継者不在や耕作放棄の増加で、美しい日本の原点が損なわれつつある。そして、平成26年度からは「多面的機能支払制度」まで登場した。詳しい説明は省略するが、先般、富山市で開催された説明会に出席したところ、ほとんどが60歳代であり、先行きが思いやられる心境だった。しかし、私達は頑張る。国の制度に翻弄されつつも、国土保全や農地維持は、国民の使命だと思う。縁あって農地を所有する我が身としては、これから益々、粉骨砕身して中山間地農業に勤しむ。

2014.1.20
30歳代の男性と話しをする機会があった。200名余の友達がいるという。えっ、すごい。私は友達っているのだろうか、と寂しい気持ちになってしまった。聞いてみると、スマートフォンアプリの「ライン」上でリアルタイムのコミュニケーションが図れる友達だという。それって顔が見えるの?と素朴な疑問を抱いてしまう。フェイスツーフェイスで育った世代としては、顔が見えない知人といくらネット上でやり取りしても、友達、という感覚にはなれない。新しいものを吸収していこうという気概はあるが、私は、顔の表情や言葉の抑揚など、空気を介して触れ合わないことには、その人を「友達です」と言う気にはなれない。古いっす、かね。

2013.1218
今年一年、強く感じたことがある。「ほんとに、人は変われないものだなぁ」と。使命感(ミッション)を肌で感じ、情熱(パッション)を注ぎ、人は生きようとする。これは誠にもって結構なことだが、その領域(殻)から抜け出せないことが多い。最近、認知行動療法という言葉をよく耳にするようになった。認知とは、ものの受け取り方や考え方をいう。この認知には、バイアスがかかっている。誰でも偏りはあるが、この偏向性を認知しないと、自己変革は難しい。人の考え方や価値観は、偏りがあるのがごく自然だが、要は、偏りのある自分を客観的に認知できるか、という点が大切なのだ。主観的なものの捉え方に客観的な視点を持つことで、人は変われる。

2013.11.27
情熱(passion)がなければ、人生において仕事を遂行し、生き抜くことはできない。しかし、情熱を傾ける先は、時とともに変わっていく。私も変わってきた。FPに強い思いがないわけではない。今もある。しかし、自分がやらねば、といった気持ちは薄れてきた。FPの通学講座で、長年講師を務めてきたことも一因ではある。15〜16年、FP継続教育研修会を企画し、多くのFPの方と関わってきたことも要因だ。FPとしての業務の継続が、逆に、「私がやらねば」、「自分が。。。」といった気持ちに変化を与えた。一人では限界がある。多くのFPが、FPの理念を基に、FPの実務を行っっていけば、必ず、国民生活の向上が図れると思う。そこに私の情熱(passion)がある。

2013.10.15
9月に記載した内容で、ちょっぴりトラブルに見舞われている。人には様々な気質があるが、「ぐいぐい押すタイプ」や「万事控えめなタイプ」、なかなか結論を出せない「優柔不断なタイプ」もいるかもしれない。ただ白と黒や赤と青にくっきり色分けされるわけではない。灰色といえば印象は悪いが、黄色だったり茶色の色もある。人の世は、この色違いの人々の集まりであり、色違いの人が出くわすと、違和感が生まれ、色が混ざり合おう(融和)とする場合もあれば、混ざり合わずに分離する場合がある。抽象的な話ではあるが、最近の自分に置き換えると、「ぐいぐい押すタイプ」への対応に苦慮しており、貝のように閉じてしまうか、時々顔を出しジャブを出してみるか、開き直ってむき身で対応するか、正直、「融通」をいろいろ考えあぐねている。

2013.9.11
どうも私は、相手の意見や考え方に、正面切って反論したり、意見を闘わせることが苦手だ。どちらかといえば、黙りこんだり、さっと話題を変えてしまう。なんとなく、無意識のうちにそのような対応を取ることが多い。性格とか性分・気質といった言葉で表わされるのだろう。したがって、決定的な人間関係の破綻を未然に防ぐことにはなっている。しかし、言葉で言い表さなくても態度に出てしまうことがある。そのような態度が頻繁になれば、それは相手へのシグナルとなる。このシグナルに全く気付かない人もいる。そのような時、枡から水があふれ出るように、「申し訳ないが、あなたとは、今後、お付き合いしたくないのです」と、はっきり言わざるを得ない。夫婦だって、親族だって、友人だって、人間関係は、押したり引いたりしながら、双方が心地よい距離感を保つ必要があると思う。

2013.8.20
仕事や家族における人との関わりの中で、問題が生じた場合、私は、こんなことを言うことがある。「お互い相手を理解することは難しいかもしれないが、相手を尊重することはできますよね。そしてそのことが大切なことだと思います」。例えば夫婦関係において、一方が収入面の主となり、他方が従となれば、対等な関係は崩れやすくなる。古く言えば食わせてやっている、なんていう横柄な気持ちが芽生えてくる。夫にしてみれば、自分は仕事でストレスを抱え苦しんでいるのに、妻は、家事と子育てを気楽にやっているではないか、といったふうである。しかし、冷静に考えてみると、好きな女性が現れ、結婚し、子供を授かって家族を持つことができたなんで、ほんとラッキーなことなのだ。妻が居るから、子供が居るから、仕事を頑張れる。そんな環境を作ってくれた妻や子に感謝こそすれ、言葉でいじめたり、暴力をふるったりなんて、愚の骨頂。自分が置かれた立場だけで物事を判断せず、妻の立場(相手の立場)を尊重すれば、一歩引いた、ほのかな感覚がきっと芽生えてくると思います。

2013.7.8
暦がひと回り。今年、還暦を迎えた。今から30年くらい前、還暦を迎えた頃の父母の気持ちを想う。私は、末っ子の長男なので、家の承継など、人一倍気を揉んでいたと思う。父の好きな言葉は、「財産守り」。このように、昭和時代までは、まだまだ「家」中心の考え方で、長男が不動産などの財産を承継する形態が多かった。しかし、今は、「人」へと移り変わっている。実家を継ぐ・継がない、実家に住む・住まない、家業を継ぐ・継がない、という話以前に、どんな仕事をする・し続ける、生活基盤を成り立たせる、伴侶を求める、といった「成人」としてのスタートラインで苦労するようになった(または記述以外の選択肢も広がった)。だから、私達・還暦親世代は、子世代に対し、従前の価値観を振りまわさない方が良いと思う。言わなくったって、きっと考えている。いわゆる、どこで折り合いをつけるか、ということを。

2013.6.11
日本の社会は、少子・高齢化、生涯未婚率の上昇、生産年齢の減少、所得の二極化、耕作放棄地の増加などなど、数えきれないくらい様々な課題を抱えている。個々人としては、それぞれ個人特有の不安もあるだろう。しかし、いつの時代も、不安のない世の中などない。第二次大戦時には、働き手である男性の多くが出征した。残された家族は必至の思いで暮らしたのではないだろうか。戦中を生き、戦後の悲惨な暮らしの中から、私達戦後世代は育った。何不自由のない時代といっても過言ではない。こんな豊かな時代であるが、反面、様々な課題に直面している。どうすれば乗り越えられるか。私は、自分に与えられた使命を全うすることだと思う。人それぞれ、その存在に価値がある。自分という存在が、この世の中の一員として、どのような使命を帯びているのか。よく自問し、その役割を全うすべく努力する。祖母や母の言葉が思い起こされる。富山弁で「あたわりやちゃ」。自虐的な言葉ではない。あたわり(その人に与えられた使命・運命)を全うすべく日々努力していこうと思う。

2013.5.2
日経新聞の「私の履歴書」欄は、5月からプロゴルファーの岡本綾子氏だ。東広島市で半農・半ゴルフの生活を送られているという。私も、半農・半業の生活を送っている。もちろん比較にはならないが、「農」にはとても魅力がある。母が亡くなるまでは、畑地で野菜を作るなど考えてもみなかった。3月に七回忌を済ませたが、6年の間、ナスやピーマン、キュウリやトマトといった夏野菜を美味しく作れるまでになった。ジャガイモは娘や親戚に贈るために作る。今年、休耕地に「啓翁桜」を80本余り植え付けもした。近所の皆からは、そんな手間暇のかかる、儲からないことをやって?とからかわれている。私の弁。「そんな儲かることだったら、みんなやりたがるから、儲からないことが競争相手が少なくっていいんですよ」。。。ワハハ。。。

2013.3.29
〜人生のステージが変わる時〜それは、仕事であったり、職場での役割であったり、社会との関わりであったり、家族関係であったり、夫婦関係であったり。自分の役割が変化する時であり、どちらかというと、「ステージが上がる」という使われることが多い。要は節目なのだ。その節目を自ら判断し、次のステップの生き方を間違わないようにしたいものだ。それには客観的な判断力が必要だ。自分を周りから見る視点だ。役割が下がっているのにしがみついてはいけない。必ず役割が求められる次のステージがある。社会との関わりの中で、順応性を高め、自分を変化させていく努力が、幾つになっても欠かせないと考えている。

2013.2.25
酔った勢いで?またはシラフであっても、意見を戦わす場面に出くわすことがある。シラフの場合は、ディベートに近いともいえる。私は、聞き役が多いのだが、二人や数人のやり取りを聞いていると、人は、自分の考えや意見をそう簡単には変えない(変わらない)ことに気が付く。つまり、自分とは異なる意見が出された時、それに反論し、持論を展開しても、相手はなかなか考えを変えることには至らない。極論としては、相手を打ち負かそうとしても、攻めれば攻めるだけ、防御の姿勢が働くということだ。聞き役の多い私は、日和見とも言える。しかし、そうおいそれと考えを変えない人々の暮らしにおいて、調整型の日和見的な存在も必要になる。古くは、左翼(改革派)、右翼(保守派)、中道派のレッテルがあるが、日和見と揶揄されようとも、私は調整型の人生を歩む。

2013.1.25
仏壇の前に手を合わせ、お経を読む。親からそうしなさい、と言われたわけではない。しかし、親が亡くなってからは、なぜかしら、遺影が飾られた仏間で、仏壇を開き、お経を読むのが習慣となった。少年期(小学6年生)に、一泊二日でお寺の合宿に行かされたことがあるくらいで、ことさら宗教心を持つよう育てられたわけではない。あぁそういえば、今日25日は、母の月命日であるとか、20日は父の月命日である、とか。朝になって、自然に思い起こされ、仏壇の前で手を合わせる。DNAに刷り込まれたものなのか。そう想いを馳せながら、雪降りしきる今日の一日を生き抜く。

2012.12.8
戦後の経済成長下にあっては、士業等の専門性が国民や企業にとっては有益なものだった。その後、地価や株価の高騰を迎え、FP資格が資産運用指南的な存在で、日本に導入された。不動産や金融資産設計、保険や年金設計、所得や相続に関する税対策など、国民のニーズが広範囲になってくると、士業の得意分野だけでは包括的な問題解決を図れない時代になった。1990年代から2010年くらいまでの20年間はそれで良かったのだ。今は、どうなのかと考えてみる。私見だが、今はトータルな専門性と、特化した専門性が求められていると思う。そして、今後のビジネスの展開としては、トータルな専門性をしっかり維持しつつ、特化した専門性で勝負していく必要があると考えている。

2012.10.16
幸田真音著の「日銀券」を読んでいて、審議委員の中井氏(学者)が、「自分は一流にはなりきれなかった。一流半の域だろうか」と自問していた。いろんな意味で一流になることは難しい。手前味噌で一流と呼ぶことは容易だが、「上には、上がいるもんだ」。FPで起業して16年。振り返ってみると、赤面することがいくつかある。日経新聞主催で、「資産運用セミナー」を富山県内十か所で行った時などは、証券会社顔負けのプロ?のような顔をして講義をしていた。ほとんど受け売りだったのだが。。。さて、私の一流半とはなんだろう、と自問してみることにした。実は、私は、個別相談業務が多かった。前職では、10年近く相続関連の相談だった。FPの仕事を始めてから、ライフプランやリタイアメント・プラン、保険や住宅ローン、相続関連の相談が続いた。私の「一流半」は、「個別相談業務」だとはっきり認識できる。これからも、一流のプロの域を目指して、しっかり対応していきたい。

2012.7.25
金融の世界は、実業と虚業があると思う。FPで開業した頃、「金融資産運用設計」のプロになろうと志した。今はなくなったが、「きんざい」の投資プランナー検定試験を受けたり、投資顧問会社の実践研修を受けたことがある。一時期3年ほど、投資助言者として財務局の登録を受けたりもした。その時々、更に、豊富な知識を持った専門家がいた。専門家を名乗る人もいた。確かにプロの話は、「目からうろこ」の気分だった。自社にて、「目からうろこの投資セミナー」と題した企画をしたことがある。しかし、地に足がついていなかった。人の経験を受け売りしているだけで、自分の経験や、しっかり身に付いた知識がなかったように思う。今は、どう客観的に、第三者的視点で金融の世界を見ることができるか、意識しながら、ニュースを読んでいる。

2012.6.27
FPは、ネットワークが大切だと言われる。顧客ニーズに対して、包括的なアプローチを行う場合、自分の専門領域ではない分野の対応を迫られる場合がある。私の仕事では、税理士に税申告を依頼する場合、相続登記の際に司法書士へ依頼する場合、社労士に退職金規定の改定を依頼する場合などがあった。しかし、コラボレーションとは違う。コラボレーションとは共同作業のことだ。家を建てる際に、大工さんや水道屋さん、左官屋さんが、役割に応じ、一緒になって家の完成を目指して仕事をする。しかし、FPの場合、コラボレーションに気をつける必要がある。自分の領域でしっかり稼げる部分を持って、共同作業を行う相手を当てにしてはいけないということだ。はっきり言えば、「人のふんどしで相撲を取る」ような気持ちをもってはいけない。

2012.6.8
その仕事が社会に役立っているのか?起業家にしろ、サラリーマンにしろ、それは常に自問が必要だ。虚実入り混じる仕事といったら失礼にあたるかもしれないが、「実」のみの仕事もあれば、極端な話、振り込め詐欺のように「虚」のみ仕事があるかもしれない。また、間違った展開をすると「虚」になる仕事がある。成人に達し、仕事に就いてから35年になるが、心がけ次第で、仕事の質が変わるということを知った。虚実入り混じる仕事があるとすれば、常に、社会や顧客を意識して、<実>になるよう努力しなければならない。

2012.4.27
自転車の両輪をビジネスに当てはめてみる。後輪は、現実的な話だが、マネーであったり、経験、ノウハウであったりする。マネーといっても、ストックがあればフローもある。一方、前輪は、ビジネスの方向性や発信の仕方、それを伝える人間力であったりする。若い頃、人材育成のプロから、両輪のバランスが大切だと教わった。一方、最近は、バランスだけではいけないと感じている。後輪の駆動が弱い時には、前輪がふらふらする。この場合は、行く先を定めてもなかなか前に進まない。後輪の駆動に勢いがあると、前輪のちょっとした動きであらぬ方向に行くかもしれない。自転車の乗り始めの頃、誤って小川に落ちた経験のようなものだ。私は、後輪の駆動と前輪の方向性を意識して生きていきたいと思う。

2012.3.2
FPがビジネスとして成り立つか?とか、FPで飯を食えるんだろうか?といった疑問を耳にする。日本FP協会は、ビジネス支援をしてくれるんだろうか?といった話も以前からよく聞く。様々な資格はあるが、資格とビジネスは必ずしも一致しない。自己啓発を目的で取得される人もいる。ふと、税理士会や弁護士会、社労士会、不動産鑑定士協会、宅地建物取引業協会、そして商工会や商工会議所等のホームページを見た。いずれも継続教育セミナーや無料相談会、認知度向上の取り組み、会員紹介などが主な取り組みだ。もちろん各協会は側面支援をしてくれるだろう。しかし、個人や法人のビジネス自体は、自分(自社)で作り上げなければならない。 


2011年1月からの書き始めです。

2011.1.21
1992年の秋、オフィスの電話が鳴った。ダイヤモンド社からファイナンシャル・プランナーの通信講座の誘いだった。うさん臭いと思い、電話を切った。聞いたことがない資格であり、なんと受講料が47万円+3%消費税という高額だったのだ。きっと資格商法だろう、と率直に思った。その数日後、資料が送られてきた。高校や大学の学生名簿から入手したのだろうか。読んでみると、興味のある内容ではあった。それがファイナンシャル・プランナーという資格との出会いだった。

2011.1.24
仕事は順調だった。決算作業をスムーズに行うために、当時の表計算ソフト「ロータス1・2・3」を使い、必要な数値を入力するだけで、決算資料が自動的に印刷される事務改善を行った。事務指導課という課名に変更された時期と重なるが、それを持参して、県内各地を回った。一方で、30歳代半ばを過ぎ、「資格」というものに飢えていた。そんな矢先、二度目のアプローチがあったのだ。ボーナス時期が近づいていたこともあり、ニ回払いの分割払いで申し込むことにした。ファイナンシャル・プランニングの学習の始まりだ。

2011.1.28
前職は、県単位の組織がまとまって全国組織があったことから、研修体制が充実していた。私が影響を受けた研修講師は、税理士資格を有したI氏。なかなか個性的で破天荒な人だったが、公私ともにずいぶんお世話になった。内容は税務研修である。数週間単位の研修を何度か履修するうちに、税務六法を読む楽しさを味わうことができた。税を知ることができたことは、私にとって大きな財産となった。

2011.1.31
税理士職員I氏の講義を修了した後、前職のT氏に代わって、税務研修の講師を担当することになった。当時、私は、研修講師は大の苦手意識があった。しかし、25歳の頃、先輩のH氏(37歳の若さで亡くなった)に言われた言葉を思い出した。「やればできるじゃないか」。実際は、「思っていたより、うまくできたじゃないか」、といった励ましの言葉を思い出し、研修講師の仕事にチャレンジしていくことになる。実をいうと、一睡もできずに、ふらふらの状態で臨んだわけであり、決して、先輩に褒められる内容ではなかった。私の大切な恩人である。

2011.2.4
ファイナンシャル・プランニングの勉強で特に気に入っているのは、6科目の横断的な知識を蓄え、相談者に対した時に、その中からどのような知識の助言が必要かを自ら判断し、解決策を見いだすことができるよう、包括的なアプローチを行っていくという考え方である。専門分野に特化した資格とは異なり、より顧客目線で仕事を進めていくことができる。税理士職員I氏の指導のもと、同行しながら相続相談に対応したこと、その後、遺族の生活設計の相談に立ち会ったことは、ファイナンシャル・プランニングの効果を実感する確かな経験となった。 

2011.2.9
私の性格は、コツコツ型であり、FPの勉強は、昼食後の30分やお酒を飲まない日の夕食後の1時間を使い、それを継続した。当時のAFP通信教育は、最大2年間が履修期間であり、余裕をもって進めることができた。20冊ほどの教材を順番に読み終え、添削課題を提出すると、提案書作成の指示があった。添削課題には、先輩FPが赤書きされ、返送されてきた。俗な言い方だが、先輩FPのコメントに心踊らされ、そしてときめいた。ファイナンシャル・プランニングの勉強はとても新鮮だった。 

2011.2.16
受講開始から半年後、列車に揺られ、大阪の試験会場に向かった。直前に切符を手配したことから、小さな腰かけ椅子を持参した。カバンに5〜6冊のテキストを詰め込み、列車内で復習した。今思えば、当時の試験は合格ラインが低かった。テキスト持ち込みであったし、100問のうち、提案書が最大5点もらえることから、55点で合格できたのだ(合格は60点以上)。その後、10年近くは、テキストの持ち込みが続いたし、提案書の5点も生きていた。新たな資格が世に生まれ、認知されていく過程である。

2011.2.25
晴れてAFPの認証を得、心踊らせた。早速、自作の名刺を作った。会社の名刺に書き込むわけではない。自己満足の名刺である。幸い、友人・知人関係で数件の相談があり、名刺を片手に相談に乗った。相続対策や年金設計などの相談経験があったことから、意外とスムーズに事は運んだ。その後、仕事に活かそう!と意気込みは増すばかり。考えてみれば、自作の名刺作りは、今思えば恥ずかしさで赤面する。

2011.3.3
布袋様?の足の裏? 母が生前、なぜか、私のことを「足の裏」と言っていた。占いの本でも読んだんだろう。つまり、人の上に立つ役割よりも足の裏のように人を支える立場が多いという意味だ。母の言葉だったので、あまり、いやな気はしなかった。そんな意味不明の言葉だったが、不思議としっくりくるものがあり、仕事上では、相談業務や事務的な支援の業務にやりがいを見いだし、FP的な経験を積むことができた。ちなみに、妻は「頭」なんだそうだ。

2011.3.25
民間企業で言えば、営業本部的な部署に在籍していた折、部長に「相談課」の創設を進言した。相談を受けて、問題点を見つけ出し、対策案を立案した結果、自社商品の提案に結びつけることができると実感していたからだ。しかし、そんな人的余裕はなかった。私の仕事は、ルートセールスだったので、結果が見えづらい。もちろん、最終的には数字が物を言う世界であり、担当エリアの挙績が挙がれば実績を残したことにはなる。

2011.4.7
私が経験したルートセールスは、「自分でやらずに、相手にやってもらう」仕事だった。または、「やりやすいような環境を作る」仕事だった。つまり、間接的な仕事が多かったので、FPの知識を直接、お客様に活かすことが少なかった。もちろん、知識研修など、講師を担当する機会には役立った。しかし、徐々にフラストレーションは高まっていった。「相談課」の創設が却下されて以降、FPの夢が少しずつ膨らむのを感じた。

2011.4.21
ファイナンシャル・プランナーとして独立したい。当時は、ほとんど知られていない民間資格だったが、私にとっては顧客志向の理想的な資格に思えた。金融商品や保険商品などは手にとって、形が見える商品ではないので、顧客ニーズに沿った「提案型営業」が重要になる。FPへの思いは膨らむばかり。1993年頃から夢にまで見るようになった。それから、妻への説得が始まった。

2011.5.11
今、考えてみれば、大きな冒険だった。長女が高校三年生、次女が中学三年生、長男が小学六年生であり、これから十数年は、教育資金がたっぷりかかる。仕事に不安を感じていたわけでもない。しかし、専門性を持ちたいと思い、活かし続けたいと願った。組織の中で働いていると、徐々にマネジメント能力が重視される。私は、マネジメントよりも実務が好きだ。だから、自分の生涯の道筋をつけたいと思った。(ピーター・ドラッカーの「マネジメント」は、ようやく、2011年に全巻を読みました)

2011.5.27
ビジネスとしての可能性を探るために、FPの書籍に出ていた「ファイナンシャル・プランナーの会社」に電話をかけてみることにした。東京や大阪、名古屋といった大都市ではなく、地方都市で独立が可能かどうか、独立するとしたらその時期はいつ頃が良いかを知るためだ。1996年秋、なんと隣県の石川県金沢市で、すでにファイナンシャル・プランナーの会社が起業しているというではないか。心ときめき、訪ねてみることにした。それが、堂下勉氏と高橋昌子氏が設立した鰍ePサポート研究所だ。今も「兄」「弟」の関係で業務提携を続けている。 

2011.6.14
1997年1月、担当していた研修講師の仕事が一段落し、満を持して、職場の先輩E氏に3月末での退職を打ち明けた。一方、大先輩Y氏の自宅へ出向き、退職する経緯を説明した。また親戚の税理士T氏には、創業の現実とについて相談を持ちかけた。まずは失敗を恐れずにやってみることだ、との助言をいただいた。妻への説得は5年余り、サラリーマン生活20年を締めくくることとなった。

2011.6.23
「男性は、形から入る」とよく言われる。新しい仕事を始めるために、@小さいながらもオフィスを持とう、A机を買い求め、応接セットを買おう、B一室の事務所ならパーテーションで区切ろう、C電話を引いて、コピー機を買って、Dカウンター席も必要かしら、といった具合に初期費用をかけてしまう。ご多分にもれず私もそうだった。今、思えば、初期費用は節約し、ゆっくり時間をかけて、何にお金を投ずるかを考えていった方が良かった。後から気づいたことだが、女性より男性の方が体裁を気にするようだ。

2011.8.26
1997年3月12日は、弊社の創業日。手帳には、半年に顧客100名獲得とか、営業で回ろうと思うリストを作成した。前職では、相続時や相続後の相談業務の経験が長かったので、新聞の死亡欄を見て、相続相談の案内を出そうなどと考えた(これは実際に実施した)。しかし、傘の下(会社などの組織)で働いている場合と、起業した一個人の信用度は月とすっぽん。だが、不思議と悶々とするような日々は過ごさなかった。正直、仕事がなくても、楽しくて仕方なかった。あれもやりたい、これもやりたい、わくわくした気持ちが、以来何年も続いている。

2011.9.14
1997年初夏、北陸の先輩FP会社である鰍ePサポート研究所から、日本FP協会の認定教育機関になっているので、富山でAFPの通学講座の運営をやってくれないか、との誘いがあり、引き受けることにした。当時、12日間のコースで、受講料は315,000円である。私は、通信で47万円+3%消費税を支払って受講したことから、受講料にはそんなに違和感がなかった。以来、年3回ペースで、33期開講した。今は、FP技能士を含め、AFPは安価な通信講座を利用しながら、自前の通学講座を実施している(2011年9月、40期終了)。

2011.10.6
私は、講座を運営することが好きだ。特別、講師が得意なわけではない。前職で、研修資料の作成や研修時の事務局、講師の担当、外部講師の依頼や折衝などを行ってきたことから、運営のノウハウが身に付いたのだと思う。しかし、開業後、あんなにFP資格の二―ズが増すとは思わなかった。一方、私自身は、営業の経験が未熟だったこともあり、FP講座の受講者を思うように集めることはできなかった。第一回目は、前職での知人や前職の同僚、先輩など6名の受講から始まった。

2011.11.8
知識で得たことを実践してみる。知識で得たことと実践で得ることは、必ずしも一致しないが、私は、正しい知識をもとに、実践で積み重ねて得たノウハウが大切だと思う。実践なくして真のノウハウは得られにくい。FP資格が広まった背景には、広範囲なFP知識を、ファイナンシャル・プランニングという実践の場で、その効果を発揮したいという願望の表れだと思う。保険営業の立場から、証券営業の立場から、申告税務の立場から、不動産コンサルの立場から、常に顧客と接する人々にとって、FPの実践が顧客利益をもたらすとともに企業利益にもつながると信じられたからこそ、FP資格の二―ズが爆発的なものになったと考える。

2011.12.7
ファイナンシャル・プランニングの相談料をいくらにしようか。一回1時間程度の相談料を設定した方が良いのか、一連の相談業務に関してまとめていくらにした方が良いのか、迷った。果たして相談だけにお金を支払ってもらえるものだろうか、という不安もあった。いろいろ考えた末、初回は無料相談にして、その後、ファイナンシャル・プランニングの提案が必要な場合、提案書という形の書面に残すことを原則に、有料相談にすることにした。保険の見直しであれば保険分析表、収支予測に関してはキャッシュ・フロー表、相続に関連した相談に関しては、一般的な税法解釈やその中での選択肢を提示すること、あくまで税理士法に抵触しない範囲で、知識をよりわかりやすく伝え、判断しやすいように書面にまとめた。これらは、提案書作成2万円なり、半年契約6万円なり、年契約12万円なりという事前提示で了解を得て、具体的に実行した。そのスタイルに、FPとして結構こだわった面もあった。

2012.1.6
開業2年、3年経つと、ファイナンシャル・プランナーの資格は、マスコミを中心に徐々に認知されるようになった。特に3年目は、日経新聞主催の資産運用セミナー(富山県内8会場にて)が開催され、講師を務めたことから知名度も上がっっていった。北日本新聞のインタビュー記事、FMラジオへの出演、北日本放送やチューリップテレビでの金融・経済に関するコメントなど、以降、不定期で頻度は少ないが、取材は10年に及んだ。今考えれば、プロと言えるほどの経験が少ない中、張り切って話をしたものだ。

2012.2.3
FPの専門性は、AFPに合格したから高まるものではない。CFP(R)に合格したから高まるものでもない。専門性とは、経験の裏打ちなのだ。十数年前、FP学習で得た金融の知識、DCアドバイザーや投資プランナーなどの資格取得で得た投資理論の知識、そんな知識で資産運用のセミナーを担当していたが、はっきり言って経験の裏打ちではなかった。今思えば、恥ずかしい限りである。人前で話をするにも、アドバイスをするにも、経験の裏打ちから出る言葉には真実味と説得力がある。FPは、地道に経験を積むしかないのだ。

 

「CFP(R)は、米国外においてはFinancial Planning Standards Board Ltd.(FPSB)の登録商標で、FPSBとのライセンス契約の下に、日本国内においてはNPO法人日本FP協会が商標の使用を認めています。」